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「永遠」について考える人は、そう多くありません。人は時々、「死」については考えますが、「死後」に何が起こるかまでは考えません。

子役だった頃、E.T. という映画で活躍したドリュー・バリモアというアメリカの女優さんは、28 歳のときにこう言いました。「うちの猫より先に、私が死んだら、私の遺灰を猫に食べさせて。そうすれば、私は猫の中で生き続けることができるわ」。何と恐ろしい、愚かで短絡的な考えではないでしょうか。

イエス様が生きておられた時、大勢の人々が悩みを抱いてやってきました。その悩みの多くは、遠い未来のことではなく、その日の、目の前の悩みでした。

•    十人のらい病人は、病気を治してもらいたいと願いました。(ルカ17・12)

•    ふたりの盲人は、目が見えるようになりたいと願いました。(マタイ9・27)

•    群集のひとりは、遺産分割の調停をしてほしいと願いました。(ルカ12・13)

•    パリサイ人たちがイエス様を陥れるために、「カイザルに税金を納めるべきかどうか」と質問しました。(マタイ22・17)

これらは切実な問題でした。しかし長い目で見て、はるかに大事なこと、「どうしたら天国に行けるのか」について、イエス様に尋ねる人はほとんどいませんでした。でも、ある金持ちの役人はイエス様に尋ねました。「私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか」(ルカ18・18)。それに対するイエス様の答えは、「持ち物を全部売り払って、私についてくるように」でした。彼は大金持ちだったので、悲しみながらもイエス様の仰せに従うことができず、天国に入る機会を逃してしまいました。

一方、聖書には、天国を捜し求めていなかったものの、イエス様によって天国の存在を知り、天国に行くチャンスを得た幸せなザアカイという人物が記されています。ザアカイはイエス様に会いたいと熱心に願った結果、イエス様に会えたばかりか、それ以上のすばらしいものを手に入れました。

イエス様は彼の家に泊まられ、親しく語ってくださり、そしてザアカイは、天国を見い出したのです。「きょう、救いがこの家に来ました」(ルカ19・9)。とイエス様はおっしゃいました。

どうしたら天国を見   つけられるのでしょうか?

天国、つまり天の御国については、次のように言うことができます。

•    天の御国は、いつでも見出すことができます。このことは、読者のみなさんもまた、今日にでも「永遠のいのち」を手に入れることができる、ということを意味しています。

•    天の御国は、良い行ないによっては手に入れることはできません。

•    天の御国は、何の準備もなく、手に入れることができるのです。

私たちはどうしたら天国に行けるかと、自分勝手にあれこれと考えますが、天地を創造した神様の言葉に基づかない考えは、すべて間違いです。間違いの例を二つあげましょう。ある有名な歌手は、サーカスを引退するピエロのために、「彼はピエロの演技を通して多くの人々を幸せにした。だからきっと天国に行くだろう」と歌いました。

また、ある金持ちの女性は、二十人の女性が無料で住める施設を建てました。そこに住むための条件はただ一つ、金持ちの女性の霊的な救いのため(つまり天国に行けるために)、毎日1時間祈り続けると約束することでした。これらの考えが誤りであることは言うまでもありません。

では、私たちは一体何をすれば、 本当に天国に行けるのでしょうか?

イエス様はこのことを説明するために、宴会のたとえ話をなさいました(ルカ14・16)。ある人がすばらしい宴会を催したいと考え、多くの人々を招いたのですが、その招きを断る人々が多かったのです。断る理由は、「畑を買ったので」(18節)、「牛を買ったので」(19 節)、「結婚したので」(20 節)などというものでした。この「ある人」とは、イエス様のことです。そしてイエス様は、このたとえ話を、次のような言葉で締めくくっておられます。「言っておくが、あの招待されていた人たちのなかで、わたしの食事を味わう者は、ひとりもいないのです」(24 節)。

このたとえ話が示しているように、私たちは、イエス様の招きを受け入れて天国に入れるか、それとも招きを拒絶して天国を失うかのどちらかです。肝心なのは、「あなたが」天国への招きを受け入れるか、それとも断るか、です。なんと簡単で、容易なことではありませんか。

時が来て、悲しいことにあなたが天国に入るのを拒絶されるなら、それはあなたが「天国への道を知らなかった」からではなく、あなたが「イエス様の招きを受け入れなかった」からです。上記のたとえ話に出てくる、招きを断った三人は、悪いお手本です。なぜなら三人とも、宴会への招きを理由をつけて拒絶したからです。

では、このイエス様の宴会は、断る人々が多くて中止になったのでしょうか? いいえ、そうではありません。招きを断った人々が出たので、宴会の主人はひろく世界中の人々に招待状を出しました。今度は特別な招待状ではなく、単に、「来なさい!」と呼びかけられたのです。この招きを受け入れた人々は誰でも、宴会の席を与えられました。そして大勢の人々がやってきました。それでもまだ席があるのを見た主人は、しもべに言いました。「街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れてきなさい」(23 節)。

このたとえ話は、現在の私たちとどのような関係があるのでしょうか? 天国にはまだ場所があり、イエス様はあなたにつぎのように呼びかけておられます。「来て、天国のあなたの席に着きなさい。正しい判断を下し、あなたの永遠の場所を予約しなさい。今日、そのことをしなさい」。

天国はすばらしい所です。だからこそ、イエス様は宴会にたとえ、私たちを招いておられます。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである」(1 コリント2・9)。

この地上では、天国に似た所は、どこを探しても見つかりません。天国とはそれほどすばらしい所です。天国を逃すわけにはいかないのです。信じられないほど貴いお方、神の子であるイエス様は、私たちのために天国への道を開いてくださいました。そして私たちが容易に天国に行けるようにしてくださったのです。

私たちがしなければならないたった一つのことは、ただ「天国に行きたいと願うこと」だけです。先ほどのたとえ話に出てきた人々のように「近視眼的」でない限り、神様からの招きを断れる人はいないはずです。

イエス様を通しての救い、天国への道

使徒の働き2 章21 節は、とても重要な一節です。「主の名を呼ぶ者は、みな救われる」。これは、新約聖書の核となる言葉です。伝道の途中、ピリピの牢獄に囚われていたパウロは、看守にこう言いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16・31)。この言葉は、簡潔で革命的であり、私たちの人生を根本的に変えてしまいます。事実、看守はその夜のうちに回心し、救われたのです。

イエス様はあなたを「何から救われる」のでしょうか? 

これはとても大切な質問です。イエス様は私たちを、永遠の滅び、地獄に至る道から救い出されるのです。聖書によると、人は天国か地獄のどちらかで永遠に過ごすことになります。天国はすばらしいが、地獄は恐ろしい所です。そしてそれ以外の選択肢はありません。死んだらすべてが終わりだ、と考えている人々は、死んだ後、実は死が終わりでなかった、という事実に直面します。あなたの人生はイエス様との関係によって裁かれるのです。その裁きの結果、あなたが永遠をどの場所で過ごすのかが決まるのです。

ある講演旅行でポーランドに行ったとき、私はアウシュビッツの強制収容所を訪ねました。第二次世界大戦中、アウシュビッツでは恐ろしいことが行われました。1942 年から1944 年の間に、第三帝国によって160 万人以上のユダヤ人が殺害され、その死体は焼かれました。いわゆる「アウシュビッツの地獄」です。一度に600 人が殺されたガス室に案内されたとき、この言葉が頭をよぎりました。それは想像を絶する凄惨な情況だったに違いありません。1944 年にこの悪夢は終わり、現在、私たちはだれでも、このガス室を見学することができます。ガス室に送られたり、拷問にかけられたりする人々は、現在誰もいません。アウシュビッツのガス室は終わったのです。

この収容所跡の博物館の入り口に、十字架にかけられたイエス・キリストの絵が掛けられています。殺されていったある囚人が、壁に爪で刻み込んだイエス様の絵です。囚人はその絵を残すことによって、イエス様に対する希望をはっきりと示そうとしたのです。もちろん、この人もガス室で殺されましたが、救い主であるイエス様を知っていました。悲惨な所で亡くなられましたが、天国に招き入れられたのです。

イエス様がマタイの福音書で述べられた「滅びの道」(7・13)、「ゲヘナ」(5・29、30)、「永遠の火」(18・8)、また、黙示録で「火の池」(20・10、15)と記された、恐ろしい「地獄」から逃れる道を、私たちは持っていません。また、恐怖と苦痛が永遠に続く場所「地獄」を、訪れてこの目で見ることもできません。

しかし、「天国」もまた、永遠にわたって続きます。そして、その「天国」こそ、神様が私たちを連れて行きたい、と願っておられる所です。ですからぜひ、あなたも天国に招き入れていただけるように、主の御名を呼び求めて、天国への予約をなさってください。

ある講演会のあと、一人の女性が私のところに来ました。彼女はとても動揺しているようでした。「一体どうすれば、天国を予約できるのですか? 予約と言われると、なんだか旅行会社みたいですけど」。私は答えました。「その通り。どこであろうと、予約しなければ、行きたいところに行けないでしょう? あなたがハワイに行きたいなら、航空券を予約しないとね」。彼女は言いました。「その切符を手に入れるためには、支払いが必要ですよね」。「そうです」と私。「天国への切符も当然支払われなければなりません。しかし、その切符はあまりにも高価で、誰一人その代金を払うことはできません。私たちの「罪」が、天国行きを妨げてしまうのです。神様は、天国では罪の存在をお許しになりません。もしあなたが、天国で神様と永遠に過ごしたいのなら、まず「罪」を赦され、救われる必要があります。そして、この「罪」を赦してくださるお方は、罪とは完全に無縁のお方以外にありません。そのお方こそ、イエス・キリストです。イエス様こそは、あなたが天国に行けるために、あなたに替わって代価を支払うことのできる唯一のお方です。事実、イエス様は十字架の上で、ご自身の血潮によって代価を支払ってくださったのですよ」。

天国に行くために、私たちはいったい何をすればいいのでしょうか。神様は私たち全員を天国に招いておられます。聖書の中には、私たちが神様の招きを受け入れるように促している箇所が、たくさんあります。

•    「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。」(ルカ13・24)
•    「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4・17)
•    狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭くそれを見いだす者はまれです。」(マタイ7・13-14)
•    「永遠のいのちを獲得しなさい。」(テモテ6・12).
•    「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16・31)

これらはみな、神様からの招きの、深く心に響く言葉です。この招きに込められた神様の真剣で暖かい気持ちを、あなたは感じるはずです。今、私たちがするべきことは、次のように祈って、この招きを受け入れることではないでしょうか。

「主イエス様。あなた様を通してでなければ天国に行けないことを知ることができました。いつの日か天国で、イエス様とともに永遠にいたい、と願います。自分の罪のために、本来は地獄に向かうべき私を、どうか救い出してください。あなた様は私を愛してくださって、私のために十字架の上で死んでくださり、私が受けなければならない罰の身代わりとなってくださいました。私の子供のときから現在まで、心と身体で犯した罪を、あなた様はすべてご存知です。私が思い出せる罪、また思い出せないあらゆる過ちをも、あなた様はすべてご存知です。あなた様の御前に、私のすべてはさらけ出され、知られています。今のままでは、天国に行ってあなた様と共にいることなど、許されません。ほんとうに、ごめんなさい。どうか私の罪をお赦しください。私の人生に直接介入してくださって、私を新しくしてください。あなた様がご覧になって、正しくないことを、すべてやめられるようにお助けください。良い習慣を身につけられるようにお助けください。あなた様が語られた御言葉である聖書を、理解できるように助けてください。あなた様が私に語ってくださることをすべて、理解できますように。みこころにかなう、従順な心を私にお与えください。私は、あなた様についていきたいのです。私の人生のあらゆる局面で、私の進むべき道をお教えください。あなた様は、私の祈りをいつも聞いていてくださいますから感謝します。神様の子供とされていること、天国であなた様と共に永遠にいられることを、感謝します。アーメン。」

Prof. Dr. Werner Gitt
ヴェルナー・ギット教授・博士

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